3月3日

昨日メールしてて気づいたんですがなんかみんな結構学校に行ったりしているのだそうで、家が遠いからかそんな連絡も入ってこず(笑)みんな行ってるんなら逆に行かないほうがレア度が上がるかもしれないなどと不遜なことを考えました。

あとなんか意外とみんな後期対策してないんだとわかって萎えました。やっぱりチャートを読むだけになっていることも災いしてますね・・・

そう、その前述のメールの中に出てきたんですが、カラオケに行ったという話題が出てきました。カラオケは僕にはかなり不可解で、なんであんなに多くの人がカラオケに行くのか不思議です。もちろんカラオケに行くのは僕も好きなんですが、カラオケに行って自分だけしか知らない歌を歌うのが申し訳ない気がします。僕が初めてカラオケに行った時は、一曲をその場にいる全員(3人でしたが)で歌ったのでその印象が強すぎたのかもしれません。だから他人が歌っている時はできるだけ機械に手を触れて次の自分の歌いたい歌をいれるなんて行為にふけりたくないですね。それに加えて僕は家でも歌っていて、家だけでなく普通に外でも歌っていて(つまりかなりアヤシイ人です)歌う行為には不足はありません。また僕は音痴なので、しかし高音を出そうとして自分の実際の音程とのギャップに甚だ困っています。こういう訳で本家本元の素晴らしい歌とかけ離れた「歌」しか歌えていません。したがって僕はカラオケを周りの人と一緒に歌を楽しく歌う場と見なすため、他人の好きな曲とか歌手を事前に調べて、その曲や歌詞を覚えてからそれを歌うっていうやり方を好みますね。

あと一日がとても退屈になって、そうですね〜自分はどちらかというと楽観主義的な人間ですけど、悲観的になるときにはすごく悲観的になるため常に不安と闘っています。こう書くとやはり嘘っぽく感じられますがね・・・。実際どのぐらい「闘ってい」るかは不明です。鬱っぽくなるというのでしょうか、昨日もあることを考えてました。あることっていうのは自分の未来なんですが。僕は以前どこかで書いたのですが、「must」のなかに自分は生きていると。ある人からそんなことはなくて「can」なんだよって教えてもらいましたが、今でも自分はそれを信じられない気がします。しかし「〜しなかればいけない」の中に生きることは本当に大変なことであって、つまらないことです。未来とは別に将来のことを考えると、25歳で結婚して子供ほしいな〜とかなんか楽しいですよね。

これも前にある人に言ったことがあるのですが、なんか「死」がとても身近な存在だって。もちろん自殺願望とかそういうことでは勿論なくて、当たり前のことですが。「死」とはなんか次元が違うものなのじゃないかな〜って思います。二次元のものに三次元の移動が分からないように。「死」って簡単にいえば眠ることと一緒じゃないかなって思います。眠っているときに僕らは次の日に目覚める。だけど死んじゃったら目覚めない。それだけのことなんじゃないかなって。もちろん医学的には心臓や脳が機能しているかが重要なのかもしれない。だけど当事者の僕らにはそんなことわかんないしね。そう考えると死は特に怖いことはないはず。事故死の場合はどうなんだろう。テレビのニュースを見ていると連日のように痛ましいニュースに溢れかえる。僕の荷には重いかな?普通にこのように書いていると身分不相応な気になってしまいました。止めましょうか(笑)。


「勉強」でもするしかないですね(笑)