追憶〜文系なんで

今日はいまさっき卒業文集を読んだのでそれについて書きましょうか。

文集を読んでいると、といってもなんだか読んでは胸がいっぱいになって閉じて、そしてまた開くの繰り返しで、開いても、やっぱり胸がいっぱいになって読めないので結局は全然読めていないのですが・・・。僕も含めて多くの人は、なんか文集の中に忘れ物を置いているのではないでしょうか。それは6年間ないし3年間過ごした友達、学校について。忘れ物を落とすことによって、次の新たな一歩につなげていこう。そして“拾得物取扱センタ―”に向かうときには、落し物やそれに付随して現れるものを思いだすのではないのでしょうか。

僕は文集の存在についても最近看破したような気がします。
文集とは、当たり前なことなのですけど、「時間」を私たちに喚起させるものなのではないでしょうか。文集を書くことによって、「今まで」と「これから」を区切る「時間」にメスを入れる、そういった役割なのでしょう。
僕らは毎日過去を思い起こすことはありません。そしてゼノンの矢のようにほとんど変わらない毎日でちょっとずつ変化していく中で、やりすごしたまま月日を過ごしていくのでしょう。


もうあの6年間を過ごすことはできない、

もう一度あの学友たちと全員集合で会うことはない、

そして今こう考えることですらもすぐに「過去」へと変わっていく。


そう考えると胸がいっぱいになって、もう戻れないなんて思うと、やるせない気持ちで胸が塞がってきます。


時間が止まればいいのに・・・って思うことが何度あったことか、

こんなに楽しい時なんてないんじゃないかって思ったことが何度あったか、

こんな楽しい友達とずっと一緒にいれたらいいと何度思ったことか、



心に思うたびごとにそれらは僕の現在から抜け出して、過去へと向かう。


過去の写真を見るとその時の自分や友達の姿が形に残っている。

過去のDVDを見ればその時の自分や友達の動きが映像に残っている。

だけどそれは所詮形や映像にすぎないわけで、それ以上でもそれ以下でもない。写真やDVDに残らないような僕の記憶の中にいつまでも残ってほしいものがある。そう信じたい。